流山児★事務所
40th Anniversary
『ハイライフ』
生きてるだけで丸もうけ
作 リー・マクドゥーガル
テーマ曲 トムソン・ハイウエイ
翻訳 吉原豊司
演出 流山児祥
演出 西沢栄治
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==DVD発売中!!==
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作⦿高取英
(月蝕歌劇団)
脚本・演出協力⦿天野天街
(少年王者舘)
演出⦿流山児祥
音楽⦿巻上公一
流山児★事務所
中高年演劇=楽塾からブロードウエイ・ミュージカルまで上演し 高い評価を得て多数の演劇賞も受賞し海外公演も、毎年のように行ってる国際的シアターカンパニーです。
★★★新人募集中です!劇団で活動することに興味がある人を募集します★★★
【募集人員】 6名 (俳優・スタッフ・制作)18歳以上35歳未満。 国籍不問。心身ともに健康な男女
詳細はコチラより!!
【お問合せ・応募先】
流山児★事務所 新人募集係 〒162-0045
東京都新宿区馬場下町60番地 まんしょん早稲田307
TEL:03-5272-1785(平日13時~17時)
E-MAIL:mail@ryuzanji.com
寺山さんと高取のこと
流山児祥
寺山さんと初めて会ったのは、一九七〇年十二月、二十三歳だった。突然、電話があった「寺山修司です」という声に驚いた。「ぜひ、話したい」とのこと、渋谷の喫茶店で会い、芝居の話をした、「君は演劇で革命が起こせると思っているの?」と問われたので、私は傲然と「革命の演劇は可能だ」と答えた、イマ思えば赤面の至りだが、当時は、本気でそう考えていたのである。「結婚してるの?」と聞かれたので、「結婚したばかりです」と、答えた。「僕は、離婚したばかりだよ」と、笑顔で言われ、その後、コトバに窮した。女物の毛皮コートを羽織り、背の高い(例のポックリを履いていたのかもしれない)、大きい鼻の「知の巨人」というのが初対面の印象であった。
七〇年代後半、高取英は、寺山さんの三田の人力飛行機舎に居候していて、編集スタッフ&三流劇画ブームを起こしている私より四歳年下の気鋭の編集長であった。一九八〇年『奴婢訓』ニューヨーク公演中、高取と共に寺山さんとゆっくりそれこそ、笑顔で、「オモシロい芝居」の話をした。これが、その後の、「わたしたちの創る演劇」の貴重な指針となった。高取は『月蝕歌劇団』を書き上げ帰国、劇作家東京デビューを飾った。演劇団 座付作家として高取は一九八〇年代を同走した。
一九八三年、寺山さんは『新・邪宗門』を演劇団に書き下し、本多劇場で上演予定であったが、肝硬変悪化の為、岸田理生・高取・流山児:改稿、寺山修司:補筆となった。人力飛行機舎や渋谷の松風荘に高取と共に原稿を貰いにゆくと、寺山さんは、競馬中継をみて笑顔で予想し、横になり、原稿を書きあげ、五月四日に逝ってしまった。
『寺山修司―過激なる疾走―』は、寺山修司に捧げる鎮魂歌である。高取は、大胆にもテラヤマの生涯と劇の中の「母子の物語」をコラージュして「父=国家不在」のモノガタリを創り上げた。シーザーの数々の名曲をちりばめ、高取ワールドと呼ばれる「何でもアリ」のアナーキーな暗黒宝塚。月蝕+流山児でしか出来ない音楽劇に仕立て、テラヤマの永遠のライバルである「ミシマの自死への道程」を私なりに加えさせてもらった。想いもよらないコロナ禍、アッチへ逝った二人には、この世界がどう見えているのかな、きっと二人とも嗤っているにちがいない。
「寺山修司さんってどんな人だと思いますか」
愛について生涯考え続けた人。少年であり老人。正直な新緑の風のように爽やかでロマンチックだったり、冬の海辺を一人佇み夕日を静かに見つめているような大人びた人。
「高取さんってどういう方でしたか」
たくさん食べる人。私も一緒にいろんな所に行って、いろんなモノを食べさせてもらった。カレー、ハンバーグ、トンカツ、エビフライ、ケーキ、チョコレート…etc
「どんな子供時代をおくってましたか」
『ひみつのアッコちゃん』の真似をしてお母さんのコンパクトを開いて「テクマクマヤコン♪」と呪文を唱えて変身していた。
「才能って何だと思いますか」
自由で健康であること。心にも体にも翼が生えているのが理想。
「心は体のどのへんに置いておくべきでしょうか?」
瞳の中。あ、口の中に心があったら、もっとお喋りが上手になったかな?寺山さんや高取さんには手に心があったのかな?
「行く道と帰り道とどちらが好きですか?」
行く道。新しい出会いがあって何が起こるのかわからなくてワクワクするから。帰り道はもう終わってしまう今日を想うと切なくなる。
役者紹介は、以上です。
お読みいただきありがとうございました。
公演をお楽しみに、配信につきましては来週お知らせします!
「寺山修司―過激なる疾走―」
2020/8/20(木)~24(月) ザ・スズナリ
はるちゃん。
春はるか です。
春やすこ、けいこ ではありません。(なぜか、こっちがでてきてしまう~)
『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』の時に
ジュリエットで参加して、そのままうちの子になりました。
世間的に紹介すると「遅れてきた大型新人」です。
「どんな子供時代をおくってましたか」
とにかくなんでも“長”になりたがる子供でした。学級委員長、クラブ部長、委員会長、部活動部長、生徒会長、応援団長、鼓笛隊では指揮者・・・。目立ちたいからではなく、みんなを自分の思い通りに動かすのが好きだったんだと思います。・・・いやな子供ですね。独裁者とかにならなくてよかったです。
「才能って何だと思いますか」
夢中で継続する力。これに尽きます。